2009.04.03 Friday
You Know My Name , Write in the Notebook !
彼が書いた「ガンダム」という文字がどうやっても「ガソダム」にしか見えず、しばらく「ガソダム」と囃したてられていましたが、いかんせん言いづらく、「ガソダム」→「ガソ」→「ガッソ」という風になったのでした。
今では「ガッソ」の本名が思い出せなくなってしまいました。
そんなことを考えたのも「DEATH NOTE」を全巻読んだからかもしれません。
噂に違わずキラとLの駆け引きには心臓が止まるほどの緊張感があり楽しめましたが、前から考えていることを思い起こされ、気になってしょうがなかったです。
それは、DEATH NOTEに書いて効力があるのは「本名」だけである、というものです。
この「本名」とはなんなのでしょう?
戸籍に登録された名前? 戸籍に名が載ってない人はDEATH NOTEは効かない?
以前から名前(固有名)についてあれこれ考えていて、そのきっかけになったのが次の話です。
ある民族(部族?)では本名には霊的な力が込められていると信じられている為、一生誰にもおしえないというのです。
本名を出来るだけ公にしないというのは世界中何処にでも散見できることなのですが、これをより思考実験用のケーススタディーとして都合の良い様に、産まれて最初の名付けも含め親族でさえ知ることのない、ということにしてみるとどうなるでしょう。
自分しか知らない誰からも呼ばれることのない本名とはそもそも「名前」といいえるのでしょうか?
実生活での名前(固有名)の使用法からこれを規定してみると、
1.名前は他者によって名付けられる。
人はごく少数の例外は除外してまず最初に「他者」に「名付けられる」。この名付けるという言語ゲームに参加したことの無い者にはそもそも名前など無関係になる。
2.名前は他者によって呼ばれる。
自分で自分を「呼ぶ」ことはない。少なくとも他者を呼ぶ様に自分を呼ぶことはできない。ウィトゲンシュタインの謂う自身の右手から左手への贈与の喩えの様に。
3.名前は他国語へ翻訳できない。
翻訳というのは厳密には不可能なものだと云われています。人間の生活条件というものはある程度似通っているので使用言語にも同様な相似があるので一応翻訳が可能になっていますが、名前(固有名)は音節から自国語に置き換えるか、全然違う言葉に置き換えるしかありません。
4.名前は意味を持たない。
名前に出自の背景-家系/仕事/土地等-の痕跡が残っていたり、名付ける者の意図等は名前の「意味」にはならない。
5.名前は直接、対象を指示する。
クリプキが「名指しと必然性」でラッセルの記述理論を批判したように、「固有名」を記述に展開してしまうと「可能世界」で指示対象を失う。ただしクリプキの謂う「指示の因果説」の先に固定化された「固有名」があるというのは現実の固有名が変化しうるという事を説明できない。名前は上記4の意味を持たないというより、指示対象を指示するのみの言葉ではないのか?
成長した人間が自己の名前を自分で変える、あるいは筆名など新たに名乗ることは実際よくある事だけども、人がそう「呼んでくれなければ」名前として機能しないのではないか?
京極堂シリーズに出てくる榎木津という探偵は周りの人間(特に卑下する者)の名前を覚えず、勝手に作った名前(酷い呼称)で呼ぶが相手は逆らえず返事するしかない。
これは極端な例だけども名前-名付け-名指しというものの本質が現れている様に思えてならない。
名前とは呼ぶ人に依存されているのではないか? そして呼び方が人によって違ったとしてもそれら全て正しい名前-本名と言い得るのではないか?
身分証明などのシステムが整った社会で暮らしていると名前-本名というのは固定的-静的なものに思えますが本質的には流動的-動的なものではないかと思えてなりません。
なので、「ガッソ」は「ガッソ」で「ひぃ〜」は「ひぃ〜」で「DEATH NOTE」で殺せるのではないでしょうか?
死神大王さんどうでしょう?
今では「ガッソ」の本名が思い出せなくなってしまいました。
そんなことを考えたのも「DEATH NOTE」を全巻読んだからかもしれません。
噂に違わずキラとLの駆け引きには心臓が止まるほどの緊張感があり楽しめましたが、前から考えていることを思い起こされ、気になってしょうがなかったです。
それは、DEATH NOTEに書いて効力があるのは「本名」だけである、というものです。
この「本名」とはなんなのでしょう?
戸籍に登録された名前? 戸籍に名が載ってない人はDEATH NOTEは効かない?
以前から名前(固有名)についてあれこれ考えていて、そのきっかけになったのが次の話です。
ある民族(部族?)では本名には霊的な力が込められていると信じられている為、一生誰にもおしえないというのです。
本名を出来るだけ公にしないというのは世界中何処にでも散見できることなのですが、これをより思考実験用のケーススタディーとして都合の良い様に、産まれて最初の名付けも含め親族でさえ知ることのない、ということにしてみるとどうなるでしょう。
自分しか知らない誰からも呼ばれることのない本名とはそもそも「名前」といいえるのでしょうか?
実生活での名前(固有名)の使用法からこれを規定してみると、
1.名前は他者によって名付けられる。
人はごく少数の例外は除外してまず最初に「他者」に「名付けられる」。この名付けるという言語ゲームに参加したことの無い者にはそもそも名前など無関係になる。
2.名前は他者によって呼ばれる。
自分で自分を「呼ぶ」ことはない。少なくとも他者を呼ぶ様に自分を呼ぶことはできない。ウィトゲンシュタインの謂う自身の右手から左手への贈与の喩えの様に。
3.名前は他国語へ翻訳できない。
翻訳というのは厳密には不可能なものだと云われています。人間の生活条件というものはある程度似通っているので使用言語にも同様な相似があるので一応翻訳が可能になっていますが、名前(固有名)は音節から自国語に置き換えるか、全然違う言葉に置き換えるしかありません。
4.名前は意味を持たない。
名前に出自の背景-家系/仕事/土地等-の痕跡が残っていたり、名付ける者の意図等は名前の「意味」にはならない。
5.名前は直接、対象を指示する。
クリプキが「名指しと必然性」でラッセルの記述理論を批判したように、「固有名」を記述に展開してしまうと「可能世界」で指示対象を失う。ただしクリプキの謂う「指示の因果説」の先に固定化された「固有名」があるというのは現実の固有名が変化しうるという事を説明できない。名前は上記4の意味を持たないというより、指示対象を指示するのみの言葉ではないのか?
成長した人間が自己の名前を自分で変える、あるいは筆名など新たに名乗ることは実際よくある事だけども、人がそう「呼んでくれなければ」名前として機能しないのではないか?
京極堂シリーズに出てくる榎木津という探偵は周りの人間(特に卑下する者)の名前を覚えず、勝手に作った名前(酷い呼称)で呼ぶが相手は逆らえず返事するしかない。
これは極端な例だけども名前-名付け-名指しというものの本質が現れている様に思えてならない。
名前とは呼ぶ人に依存されているのではないか? そして呼び方が人によって違ったとしてもそれら全て正しい名前-本名と言い得るのではないか?
身分証明などのシステムが整った社会で暮らしていると名前-本名というのは固定的-静的なものに思えますが本質的には流動的-動的なものではないかと思えてなりません。
なので、「ガッソ」は「ガッソ」で「ひぃ〜」は「ひぃ〜」で「DEATH NOTE」で殺せるのではないでしょうか?
死神大王さんどうでしょう?